libertarianmattersの日記

日々読んだ本のこと、仕事のこと、ときどきコーヒーのこと

デヴィッド・ボウイ─変幻するカルト・スター

 時系列でまとめてくれているという点では労作?だったけれども、ネットでも充分知ることができる範囲のことしか書いてはいないかな。

 

 

 

 

『電脳のレリギオ』

『電脳のレリギオ』 ドミニク・チェン NTT出版

電脳のレリギオ:ビッグデータ社会で心をつくる

電脳のレリギオ:ビッグデータ社会で心をつくる

情報技術を否定するのではなく、あくまで肯定する。人間性を損なうことなく、人間のための情報技術を追い求める。ドミニク・チェンの描く世界に大いに共感した。

僕たちが生きている今日の情報社会の行く先には、決して人工知能に人間が支配される冷たい世界ではなく、むしろ人間の「情け」や「報い」といった自然な感性に情報技術が寄り添う世界を設定できるはずだということ。そのためには「情報」というものに対するさまざまな偏見や誤解を払拭し、むしろ人間を活性化させる存在として捉えなおすことで人間と情報のポジティブな関係を再定義することが重要だ、ということです。

しかし、僕らの世界は現にどうなっているのだろうか。読んでいると、伊藤穰一オバマ前大統領の対談の一節を思い出した。

伊藤穰一(JI) これをいうとムッとするMITの学生もいると思うんですが、AI技術の基礎たるコンピューターサイエンスの担い手が、圧倒的に男性が多数で、その大半が白人、しかも、「人よりも機械と話しているほうが楽」といった連中だということを、わたしは懸念しているんです。彼らの多くは、SFに登場するような汎用AIをつくれたら、政治や社会といった泥臭い問題を心配しないで済むようになると考えがちです。機械が自分たちの代わりに解決してくれるだろう、と。 BARACK OBAMA: LAST MESSAGE FROM THE WHITE HOUSE

そう、僕らの世界は、ドミニク・チェンや多くの心ある人たちの思い描くのとは別な方向に向かいつつあるように思う。でも、僕はドミニク・チェンと同じ方向を向いていきたい。情報技術を信じ、肯定し、そして人間を肯定したい。

ますます僕達の生活に浸透していきているアプリやソフトウェアといった情報技術を作る時は、自分たちでプログラミングをする術を持たなかったり、アイデアをわざわざ形にしようと行動しない人たちの「代わりに」作る、という意識が重要なのです。 この「代わりに」という表現には注意が必要です。ドゥルーズは同時に、このことを声のない人たちー(中略)ーへの哀れみから「彼らのために」書くのではなく、「彼らに成り代わって」書かなければならない、ということを強調しています。 才能や技術のある人間がだれかの「ために」施すのではなく、その魂の表現を必要とする対等な人間として社会に届けること。この境界線はとても曖昧で危ういものではありますが、同時に僕たちの文化を人間的たらしめる分水嶺でもあるような気がしています。

情報社会においては、僕たち自身よりも僕たちの挙動について知っているかのようにみえるビックデータや人工知能と呼ばれる技術がコンパスとして存在しています。しかし、コンピュータが計算する情報は、人間がそれを摂取してはじめて意味や価値が表現されうるものです。そして計算の方法つまりアルゴリズムは結局は人間が書くものです。

The Yellow Monkey is Here

今週聞いたアルバム

 

リアルタイムで聞いてきたので今更感もあったのだけど、聞いてみてよかった。

 

僕も相応に歳をとったのか、感性がいまのイエモンにあっていたようだ。

 

 

『弱いつながり』

 

 インターネットあるいは情報技術に包囲された世界で、いかに個人として生きるか。

 

ネットは階級を固定する道具です。…中略…人が所属するコミュニティのなかの人間関係をより深め、固定し、そこから逃げ出せなくなるメディアがネットです。…中略…自由に検索しているつもりでも、じつはすべてグーグルが取捨選択した枠組みのなか。ネットを触っている限り、他者の規定した世界でしかものを考えられない。そういう世界になりつつあります。

 

東浩紀の提示は、シンプルで明確だ。

 

とはいえ、ぼくたちはもうネットから離れられない。だとすれば、その統制から逸脱する方法はただひとつ。

グーグルが予測できない言葉で検索することです。

ではそのためにはどうすればよいか。本書の答えはシンプルです。場所を変える。それだけです。

 

場所をかえること、観光客となること。そして検索ワードを変えること、グーグルに捕獲されない検索ワードを探すこと。

まったくもって共感する。しかしながら、一つだけ問題がある。僕らはそう簡単に境界を超えることはできない。場所を移動することも簡単なようで簡単ではない。

東浩紀は、高橋歩のシリーズを引き合いに出す。

5日間の休みで行けちゃう!  絶景・秘境への旅

5日間の休みで行けちゃう! 絶景・秘境への旅

 

 

でも、東浩紀ならともかく、一般の会社員が、そうやすやすと休みをとって旅行に行くというのも簡単ではない。

 

ではどうすれば良いというのか。

旅をする友人、すなわち場所を変えた人間につられて検索することならできるかもしれない。

 

そんなことを、年末年始に友人のFacebookを通じて考えさせられた。

 

それぞれはまったく面識のない友人が、まったく偶然に、あまり普通の旅行者が行かないような国に、まったく同じタイミングで滞在していた。彼らが現地で邂逅したらとワクワクしつつ、僕はこれまで調べることもなかったその国のことを「検索」した。

 

たしかに、友人の行動の範囲をこえることはないし、Facebookのつながり自体が既に取捨選択された関係性にのみこまれているのは否定できないし、現場に生に見れない、考える時間、空間は日本のままという問題は残る。

 

でも、これまで僕が検索することのなかった検索ワードをグーグルにいれた。これだけでも、世界はほんの少し広がった気がしている。

『日本のフェミニズム since1886 性の戦い編』

HIPHOPに、一つの曲のなかで何人かのMCがマイクを繋いでいく、マイクリレーという形式がある。 多様な声が繋がれる形式で、HIPHOPで僕が好きな曲はこの形式が多い。日本で有名なものだと、ZEEBRA/YOU THE ROCK★らが参加した「Dancehall Checker」 や「証言」といったところだろうか。

アメリカだと、ムミア・アブ=ジャマール支援のためにPublic Enemyらアーティストが結集した「Mumia 911」など、とてつもなくかっこいい曲がたくさんある。


Unbound Allstars - Mumia 911

北原みのりさんが編集した『日本のフェミニズム since1886 性の戦い編』を読んでいたら、これはまさに言葉のマイクリレーだなと、心から感動した。それぞれが現場からの声をつなぎ、それが響き合う。これまでこんなフェミニズムの本はあっただろうか。

言葉と言葉のあいだに、これまでフェミニズムの立場で戦ってきた先人へのリスペクトがあふれ、彼女らの言葉が引用=サンプリングされる。美しさと強さ、無力感も含め、感動的である。

後半に登場する仁藤夢乃さんは、

誰もがモノ扱いされず、暴力に行きつかなくよい真に平等な社会を目指して活動を続けることが、私にとってのフェミニズムです。

と書きます。

もっとも端的に、フェミニズムを定義した言葉ではないでしょうか。 この本が広く読まれ、これからのフェミニズムのスタンダードになって欲しいと切に願います。

付記すると、僕は上野千鶴子に(一方的に)学恩があると思っている。北原さんは上野千鶴子批判の急先鋒だ。それはそれである。 上野千鶴子を乗り越えるためにも、この本は読まれなくてはならないと思う。

『家父長制と資本制』再読

『家父長制と資本制』(上野千鶴子 岩波現代文庫)を再読した。

 

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

 

 

フェミニズムの現在地に暗澹たる思いをもった。フェミニズムは理論的には洗練されたかもしれないが、上野の水準を超えられていないように思えた。

 

イクメンが流行語となってなお、子育ては女性が主として担う構造は変わらない。言葉としては死語となった感もある「家父長制」も、構造的には残存している。上野の議論はいまだ理論的有効性を失っていない。

 

上野は「家父長制」について、まずハートマンの定義を引用する。

 

ハートマンの定義


家父長制を、物質的基盤を持ちかつ、男性感の階層制度的関係と男性に女性支配を可能にするような男性間の結束が存在する一連の社会関係である…
家父長制の物質的基盤とは、男性による女性の労働力の支配のことである。この支配は、女性が経済的に必要な生産資源に近づくのを排除することによって、また女性お性的機能を統制することによって維持される。

そして、上野が次のように論じるところは説得的だ。

 

家父長制の廃棄は、個々の男性が態度を改めたり、意識を変えたりすることによって到達されるようなものではない。それは現実の物質的基盤-制度と社会構造を変更することによってしか達成されない。

そう、イクメンは家父長制を廃棄しないのだ。

 

シングルマザーの貧困、これも昨今もまた注目されていることだが、この問題についても既に的確な議論を提示している。


女性は離婚してシングルマザーになることで、1人の男性による支配から逃れて、代わりに層としての男性によるより徹底した支配のもとに入る。夫がいれば女性は再生産費用分担のうち、貨幣費用ではなく現物費用だけを支払えばよかったが、シコンすれば彼女は現物費用ばかりか、貨幣費用もともに負担しなければならないからである。大かたの女性にはこれは無理だから、アメリカでも日本でも彼女たちは貧困層のボーダーライン以下に転落する。

 

繰り返しになるが、これが書かれたのは1990年だ。上野の議論に先見性があったのか、社会がまったく変わらないまま今にいたっただけなのか、あるいはその両方なのだろうか。

 

コーヒー、シングルオリジンかブレンドか。

同僚が淹れてくれたコーヒーが、あまりに美味しかったので銘柄を聞いてみた。豆は都内にある有名店のものだったのだけど、複数産地のものをブレンドしたものだった。ブレンドものでも、これほどの味が出せるのかと驚いたので書いています。

 

美味しいコーヒーというのは、シングルオリジンという思い込みが強かったのです。お気に入りのコーヒー豆屋の店主が、「コーヒーはワインと同じです。複数産地のブドウを使って良いワインはできません。コーヒーもシングルオリジンでないと。」という言葉に、そうだよなと思っていたわけです。

 

しかし考えてみれば、コーヒーをワインと結びつけるのは必然ではないようにも思います。例えば、ウィスキーだとどうでしょう。ブレンディド・ウィスキーでは、何をどうブレンドするか、プロフェッショナルが存在するわけです。

 

であるならばコーヒー豆のブレンダーもまたプロフェッショナルと言えるのではないでしょうか。何をどうブレンドし、どう焙煎するか。

 

シングルオリジン神話にとらわれることなく、美味しいコーヒーを飲み、豊かな時間を過ごしたいと思います。